飯田設計が何を大切にしながら、
これまで歩んできたのか。
創業当時のこと、
社員や仕事に対する考え方など、
「どれだけ社員が増えようとも、
一人ひとりの顔と名前はぜんぶ覚えとる」。
と語る社長、飯田穂に
これまでの歩みを振り返ってもらいながら、
その想いを聞きました。
昭和37年(1961年)、名古屋市中川区にある木型屋の工場の片隅を間借りして、小さな設計事務所が産声をあげた。創業者、飯田四郎をはじめメンバーは5名。小規模ながらも大手工作機械メーカーの設計依頼を手掛け、着実に実績を重ねたという。当時、学生アルバイトとして手伝いに通っていたのは現社長の飯田穂だ。「あの頃、設計専門の会社は数えるほどしか無く、そこからずっと頑張っとるんで歴史だけは老舗ですわね」と笑いながら振り返った。
飯田設計が本格的に新卒採用を始めたのは、平成元年(1989年)から。バブル経済が最高潮の時代で、採用に相当な苦労をした。東海三県下の大学・専門学校・高校を駆けずり回って集めた新卒入社の社員はわずか数名。しかし、そのときに採用した社員は今でも、現役のバリバリで活躍している。「この時代は本当に印象深い。ある高校では先生お墨付きの学生を推薦してもらってね。この子たちのためにも会社として待遇や教育制度を整備して育てていこうと頑張った」。そうした出来事を経て、徐々に仲間が増えていった。
昭和の時代から『社員のために』との想いで実施してきた社員旅行では、社員の家族も同伴で、国内外さまざまな旅路を楽しんだ。しかしもちろん、『社員旅行に行かない』という人もいる。「強制参加はぜったいにない。来る・来ないは自由。各々の気持ちに従って、無理なく・楽しく会社生活を送ることができれば、それでいい」。社員の定着率の高さは、こんな細かな気遣いが理由のひとつかもしれない。
昭和が終わりに近づいた時代、設計業界ではまだまだ手書きの設計図が主流だった。そんな中、飯田設計が業界に先駆けて取り入れたのが、今では常識となったCADシステムだ。大手でも導入に躊躇する企業がいる中で、大きな費用をかけて導入を決めた。そこにはこんな理由がある。「技術ではどの会社にも負けたく無い、そんな意地もあったけど、一番は社員のため。これから主流になる技術を取り入れて、一流の設計ができる技術者になって欲しかった。そのために、教育には相当力を入れたよね」。そうした決断が、今の飯田設計の技術力につながっている。
「中身を強くしようと思って、やってきた。 規模を大きくしようとはあまり思わん。別に、会社の規模を大きくするためにやっとるんじゃない」。中身とは、人である。売上や規模という数字を追いかけるのではなく、社員一人ひとりが技術者として自信を持てる会社をつくる。その結果、規模が大きくなればそれはそれでいい。そうした考えが、福利厚生などの制度はもちろん、何よりも社員同士のつながりを大切にする社風につながっている。一度入社したら定年まで勤め上げてくれる社員が多いのも、こうした背景があるからかもしれない。
「無理な仕事はぜったいに受けんわね。大切なのは仕事の品質と、納期を守ること。誠心誠意とか、熱意とか、その気持ちでずっとやってきた」。例えば無理な納期の仕事を強引に進めても、良い結果にはならない。「社員にそんな仕事をやらせたくない」と語る。正常な納期の中で、精一杯誠実な仕事をし、品質の高いものをつくる。それが一人ひとりの技術向上になるし、なにより技術者としての自信につながる仕事のやり方だと信じている。
「ウチにはいろんな分室がありますから、職場が違うので、全社員が集まる機会がやっぱり少ない。だからこそ、コミュニケーションを大事にしたい」。例えば分室ごとで開催される飲み会などの懇親会費用も会社負担有。都合さえつけば飯田も積極的に参加し、社員一人ひとりと交わる。そうしたことの積み重ねが、会社の基礎をつくると信じている。横のつながりが一番大事。全員が気持ちよく働き続けられる会社とはどういうものか、着想はいつも現場から始まる。
「せっかく入社してもらったんだから、やっぱりずっと一緒に働いてほしい。一生に一度のことと思って縁あってお互い出会ったわけだから、すぐに『さよなら』というのは悲しいわね」。だからこそ、給与・待遇などの福利厚生を充実させる。社員旅行や親睦会などのコミュニケーション機会を大事にする。そこに、いちばん力を入れてやっている。「それは、ずっと大事に続けてきたし、この先も変わらんわね」。